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日本、日本人の再発見のページ。いやそれよりも、異文化異文明を少しでも知り、日本と違うなあーということを考えるページになろうかと思います。
地球は一つ。同じ人間どうし。でも、違うなあー。ほんとうにちがうなあー。
東洋と西洋。風土、風俗、民族、人種、宗教、思考方法、等等 違いを発見し、違いを違いとして理解するところから、共存共栄の道が開かれるのでは。単なる言葉だけの、世界は一つでは、あまりに表層的と
想ってしまう。
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◇もの云わぬ日本人
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日本では、当然のことなのに、異国ではかなり違う。
高橋敷氏の本(『みにくい日本人』昭和47年刊行)の中に、このようなことが記されている。ご参考まで。
狭い一本道で二台の車が行き合った時、二人の運転手はかけよって、まず偶然の出合いの楽しさを交歓するために手を握る。広大な自然界に散らばる人間ひとりずつは、おしなべて懐かしい友愛の出合いに結ばれているのだ。テキサスのハイウェイで、コーカサスの道路で、ショーロホフが二十年の月日を捧げたドン河のほとりで。
だが日本ではどうだろうか。束海道新幹線の三時間の車中で新聞を広げている紳士は、決して隣席の客に話しかけはしない。もし誰かが新聞をのぞき込むならば、持主はきっと新聞をたたみこんでしまうし、のぞいた当人は顔をあからめる。
もし外国の車内で、こんな沈黙があれば大変である。セニョリータは泣いて車掌に訴えるかも知れない。
「ねえ、隣の日本人、とっても私の名誉を傷つけたの。一時間も、一言もしゃべらないで坐っているの」
だからといって、日本人旅行者は心配するにはおよばない。こちらが熱っていても、隣に坐る人種はかならず声をかけてくる。
「おお友人、ご同席できて嬉しいです」
もし、彼の新聞をのぞき込みたかったら、遠慮なしに見ればよい。彼は、思し召しを得た修道僧のように、心の底からの嬉しさを示していうだろう。
「もっと近くにお寄りよ。半分ずつ見ようじゃないか」
バイロンならずとも、「幸せとはいつも双生児」なのである。
どうということが無いと言えばそうだが、違うと言えば違う。
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◇フランスの子ども
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・フランスのキチンとした家庭では、(略)会話を楽しむ権利は大人たちだけであり、子どもは勝手にお喋りすることを許されない。じっと大人たちの会話に耳を傾けて、親とか大人から「御下問」があったときだけ、それにつつましく礼儀正しく答える義務を負うのである。
木村尚三郎『ケジメの時代』新潮文庫 18頁 |
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◇日本人
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・欧米人にとって日本人は、子どもでないとすればチビ大人である。
・日本人がチビであり小男であることが、日米・日欧経済摩擦の大きな原因である
・日本人のほうは、欧米人も人間、私たちも人間、人間みな同じと思いこみ、身体の小さいことなど気にしない。しかし欧米人の側からすれば、チビで、食うものも食わずチョコマカと働き、それでいて金持ち、などという人間の種類はこれまで見たことがない。もともとケジメをはっきりさせねば気の済まない欧米人にとって、日本人はケジメがなさ過ぎるのだ。
木村尚三郎『ケジメの時代』新潮文庫
・日本人の口の軽さ、言う必要もないことまでたのまれなくても言う態度は、あの大東亜戦争の最中にも少しも変わらなかった。
・ユダヤ人がいかに大声で論じても、だれも、少しも「思いつめて」いないのである。議論とは何十という珍案、愚案を消すためにやるのであって、絶対に、「思いつめた」自案を「死すとも固守」するためでないことは、各人自明のことなのである。ここに大きな差がある。戦後の日本の政界や政治的グループを見ると(戦前も同じだが)、必ずそこに「思いつめ集団」がいる。
イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』
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◇日本語
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日本の文字は実に便利である。上から下へも書けるし、左から右へも書ける。また必要に応じて右から左へも書ける。書く方向の自在さという点では、おそらく世界最高の文字であろう。
イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』 |
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◇西 欧
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・彼らは「血のしたたるビフテキを食べながら動物愛護を説く」のでなく、「血のしたたるビフテキを食べるから動物愛護を説く」のである。
イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』
・西洋人は力の世界に生きているから、日本人が相手に敬意を表するために頭を下げるのを見ると、これは力に屈服しているのだと思いこむ。
竹山道雄『歴史的意識について』 |
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