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編集者 辰 守弘  昭和28年生まれ
昭和51年大学を卒業 神職の資格を得る

昭和51年 東京赤坂 乃木神社奉職
       神職の一歩を歩み始める
昭和55年 三重県多度町 多度神社奉職

 
乃木神社 乃木会館で結婚式が主なる仕事であった。当時は、結婚式が多かった。
 

 多度神社では、馬に乗っての御旅行列が思い出深い。
 平成元年には、伊勢の地で宇治橋奉祝行事を多度町あげてお祝いしたことが記憶に新しい。
 5月4日・5日の上げ馬神事は、勇壮でつとに有名である。(救急車待機の神事は全国でも珍しいであろう)


●正井健三先生(16.5)
●昭和47年の一冊(16.4)
●松永材先生(16.4)
●宮司 高山貴先生(16.4)
●東京時代 西内雅先生(16.3)
●講義終了 プレゼントは コピー(16.3)
●葦津珍彦先生(16.9)
●石井寿夫先生(16.9.28)



●チャペル 結婚式について一言(16.3)
●神前結婚式について一言(16.3)
●教会 結婚式「誓ひの言葉」の内容(16.4)
●正井健三先生
先生が平成16年4月に急逝なされた。50代そこそこでの旅立ちは何と云つてもつらく寂しい限りだ。今後は幽冥からのご指導を願ふのみ。
先生とは、昭和47年大学に入学して、同じ部に入部する・しないからのご縁である。実に32年のご縁である。先生と知り合はなかつたら、今の自分はない。それほどに、先生は自分の人生のキーマンであつたと言つてもいい。
宮崎先生、池田先生、西内先生。大学の士道会時代のご縁である。兄君でもあられる両先生とも、健三先生を通しての学生時代からのご縁である。そのご縁で、東京の乃木神社奉職。そこで高山宮司、小串宮司、のちの女房と出会ふ。その御神縁で多度神社奉職。又そこでの人縁。

国史に燦然と輝く葦津珍彦先生と土民倶楽部との決定的な結び。そして倶楽部の歩みはそれ以降揺ぎなきものとなりつつある。健三先生をられたればこそである。

あまりに早く走り過ぎた先生。数々の功績を残し、素晴しい一冊の本を手みやげに、旅たたれてしまはれた。
幽冥との交流のためには、鎮魂が必要だが、今はそれが不足してゐる。「実力アップ」との教へに応へる意味でも、あの世との交流の為にも、実力向上をめぜして行きたい。
●昭和47年の一冊
昭和47年の一冊 『近代民主主義の終末』(日本教文社)
大学に入学した47年、葦津珍彦先生の上記の本を購入。同年発行の本書は、カバーも茶と白の二色でレイアウトされてをり、大事にしてゐる一冊である。本書が先生を知る契機の書でもある。
副題は、〈日本思想の復活〉とある。三章、七項目に分れてゐる。その内、五項目が、『葦津珍彦選集』(神社新報社 全3巻)に入つてゐる。選集に入つてない「忠誠とはなにか」は、明治神宮至誠館発行の『武道へのいざない』といふ本に所収されてゐる。「明治維新と日本ナショナリズム」は、雑誌を除いてこの書籍でしか読むことが出来ないかも知れない。
「近代民主主義の終末」「一票の無力さの実感」などは、題からして、読者を引きつける力がある。この貴重な本に、我は雑然と色々な線を引いてゐる。若かつたと云ふべきか。

歴史の一ページ

先生は二年後の昭和49年11月、昭和天皇様の神宮への御親謁にあたり、相当の覚悟を持つて伊勢にお越しになられてゐる。(近年知る)
我等士道会の面々は、内宮前で警護を兼ね、両陛下をお迎へ申し上げた。その節、先生の宿泊先で同じ写真に収まると云ふ栄誉に預かる。

この昭和49年、伊勢の神宮、昭和天皇様と言へば、心ある日本人ならピンと来るはず。49年は式年遷宮の翌年である。同年、永らく途絶えてゐた剣璽御動座が、神宮御親謁に際し、復活した記念すべき行幸啓となつたのである。我々はこの歴史的な日を、陛下を仰ぎながら、伊勢で迎へる事が出来たのであつた。その復活を最も喜ばれた忠臣こそは、葦津先生であられたと拝察する。
●松永材先生
直属の上司の高山さん(現在の宮司)から、『神道と宗教』といふ本を戴いた。先生の名前はその時にはじめて知る。(不覚)

一読して、偉い人だと思つた。いや、すごい先生だなーと思つた。

いい本だ、素晴しい本だ、大事な本だと実感したので、早速本のカバーをし、大事に本棚にしまつてゐる。でも、精読したとも言へないので、先生には申し訳ないと思つてゐる。一読で、そんなに簡単に理解出来るはずもないのに。とりあへず、ひまを作つて又読まなければと思つてゐる。

松永材先生に講義をお願ひした事がきつかけとなり、本書がなつたやうである。
「神道友の会」から昭和32年に刊行されてゐる。現在、神道友の会といふ名前は聞かないので、解消でもして存在しないのではなからうか。現在の我々「土民倶楽部」みたいな、神道人の会だったのではないのかな。神職だけならば、心ある神職の会といふべきなのかもしれない。構成員を知らないから憶測以上は出ず、である。

本書「はしがき」の末の歌が面白い。

キリストも釈迦も孔子も 手をとりて み祖の家に 住み(澄み)にきまさね

これだけで、先生の人となりが分りさうである。現在、このやうな先生は日本に何人ゐるであらうか。本書は宝ものの一冊だ。

古本で購入した、雑誌「新勢力」『特集 松永材先生追慕号』(昭和44年)の標題右には「日本主義の哲学者」と銘打たれてゐる。早稲田大学、国学院大学で教鞭をとられた先生。
この特集号は奥様や先生とご縁ある人達が書かれてゐるので、先生を知る上でも、先生との交流を知る上でも有意義だ。執筆者には戦後史に燦然と輝く葦津珍彦先生の名前もある。
三島由紀夫氏に送られた「生命観による中道論(概論)」(遺稿)も巻頭に掲載されてゐる。

松永先生の名前は、現在どれだけの神道人が知つてゐるであらうか。「わが師」といふ安津素彦博士の名前は知つてゐる人が多いだらうけれども。継承と断絶。歴史なり。

後年、御息女松永貞子女史によって、先生の『カントの哲学』『日本主義の哲学』『尊皇維新の論理』の三冊が出版されてゐる。(昭和63年)

『カントの哲学』は、東大の卒業論文といふ。本書巻末に、「父の遺書」と題して、「一通の遺書を机上に、家を出たまま帰らぬ人になった。」と記してゐる。この世から一人旅立たれたことは、遺体のない家族にとつては特に悲痛だ。
●宮司 高山貴先生
乃木神社に奉職した時、宮司は高山 貴先生で あられた。宮司さんにこれといつて教はつたといふ記憶は無いが、宮司さんが出社してこられて、摂末社までお参りなされるお姿は、今でも強く印象に残つてゐる。

無言の背中での感化。この点に関して、宮司さん以上の神職が居られるであらうかといふほど、強烈なインパクトを与へられた宮司さんであつた。それもそのはず、祭典姿が人を感化し、戦災にあわれた神社を復興なされたのだから。

宮司さんのやうな真剣な拝礼は、昨今目にする事が少ないのではなからうか。両手を目一杯広げて、そして拍手。それは独特であつたけれども、宮司さんがなされると、自然であつた。宮司さんの神様を拝する姿勢は、眼瞼に焼付いてゐるが、宮司さんのやうな実行はなかなか至難なり。

乃木神社では、2冊の本との出会があつた。一冊は、宮司さんから読むやうにと言はれたスタンレーウオッシュバンの『聖雄 乃木』である。神職は、「神習はないといけない」と言はれてゐた。「祭神の事を、知らねばならない」とも言はれてゐた。現在この書は、講談社学術文庫でも読む事が出来る。本書を読まずして、乃木将軍を語るべからず、である。かく記したが、ほとんど忘れてゐる。困つたものなり。日本人も乃木将軍を忘れてゐる。あるいは曲解してゐる。自分の低レベルに、偉人をあはせようとするから間違が起る。これでは、道義の復興はさらに先なり。

平成2年、先生神去りましたとき、不肖私も多度からかけつけ、祭員として奉仕させて頂いた。先生の遺稿集『神在ますが故に』(175頁)が、社務所から平成5年に刊行されてゐる。再度読まなければ。 日本の兵法書『闘戦経』の「骨と化す」の実践あるべしと、自らに言ひ聞かせてゐる。
あと一冊は、松永材氏の本である。
●東京時代 西内雅先生
東京時代は2年少々。月に一度、西内雅先生の講義を拝聴した。先生は正座で講義。こちらも正座で受講した。人のいやがる正座なのに、喜んで出席した。緊張感ある有意義な時であった。
 先生とは、学生の頃からご縁である。受講生は、少人数であったが、先生はめげることなく講義をしてくれた。全身全霊の講義、果たして今そのような講義が行われているのであろうか。
 受講生には皆特徴があった。変人といえば変人だったかもしれぬ。新たな歴史を作ってきた人は皆変人だから、変人と言われた方が皆喜ぶかもしれない。場所は渋谷で行われた。駅で先生を迎え、一緒に会場まで徒歩で移動した。先生は歩くのが速かった。
 そういうこともあって、結婚に際しては、色紙にメッセージを送っていただいた。額に飾ってある。場所はなぜか子供の部屋である。

●講義終了 プレゼントは コピー
西内先生の講義は、いつ頃終了しただろうか。
 皆からのプレゼントは、今でもほとんど手に入らない、葦津珍彦先生の本のコピーである。ありがたかった。

現在宮司で、当時直属の上司であった高山さんからも、葦津先生のコピー(『天皇神道憲法』)を頂いた。それを本の形にして綴じ、錦をまきコピー本として側に置いていた。土民倶楽部の第一回研修の時に、その本に先生にお名前をペンで揮毫して頂いた。余談だが、そのコピーが 「葦津先生10年祭特集号」の中に入れられている。先生独特の字を見て、先生を思うよすがになればとの思いからである。事務局の配慮なり。

●葦津珍彦先生
イラクの状況をテレビ新聞雑誌等で見たり聴いたり読んだりしながら、日本が大東亜戦争に負けて後、どうだつたのかと思ふ昨今である。
日本は破れはしたが、上に天皇陛下がましましたから、統治もスムーズにいつたのであらうが、イラクは違ふ。強権でまとめてゐた前政権が逃げて以来、国家はバラバラ状況であり、国民の悲惨さは推して余りある。
米国は、日本の占領統治が余りにうまくいつたものだから、イラクも同様にうまくいくと践んでゐたが、さうは問屋が卸さなかつた。

日本では、占領されたことすら知らないといふか忘れてゐる状況下にある。これでは、中国の予言の如く、近い将来中国に吸収されてしまふかもしれない。
さうはなりたくないが、このまま推移すれば、さうなるであらう。米国の占領、日本弱体化の根は深く、未だ自主独立の国家とは言ひ難い。そろそろ、お目覚めの時期だが、まだ呆け状態にある。本人が、呆けにきづかないのであるから、始末が悪い。
一例をいへば、占領中に行はれた東京裁判。その裁判や判決に附いて、異論を唱へず、否定もせず、考へもせず、A級戦犯等と言ふ。そのやうな戯けが、政治家だから世も末と感じてしまふ。裁判に価しないものを、より所にしてゐる馬鹿である。

日本が、滅ぼされる前に、日本をよくしようと思へば、占領に思ひを致せば、この先生にたどり着く。たどり着かないやうだと、間抜けである。

毎日のやうに殺人が行はれるやうな今の状況は、完全なる戦後教育、戦後民主主義の誤りや欠点の結果である。
そろそろ、占領によつて日本を駄目にしようとしたその政策を破棄して、日本の立場で日本人の立場で再生を目指さないと、大変なことになる。

日本弱体化、即ち日本を腑抜けにする、占領軍の政策に敢然と立ち向かつた男こそ、この先生である。この先生のご活躍あればこそ、日本再生の糸口があり、日本が完全なる腑抜けから救はれてゐる。日本再生の道を、先生の歩みや歴史から見出せないやうだと日本は危い。
先生の名前は、葦津珍彦といふ。 (16年9月11日)
●石井寿夫先生
編集者の三先生と云えば、葦津珍彦・石井寿夫・西内雅の先生方をさす。その内、一番早くここに登場したのが、西内先生であった。次が、葦津先生。石井先生は、ここに最後の登場である。
 かつて、神社新報の「やまびこ」欄で書いた時にも、三人の先生の名前を記させて戴いたほどに、皆特徴のあるユニークな先生方であった。然し、どの先生方も、道義国家日本として再生することを念願なされていた。
●チャペル 結婚式について一言
キリスト教式の挙式が現在多くなったようであるが、芸人ならいざ知らず、普通の人がなさるのはどうなのでしょうか。
 キリスト教を知るには、聖書を読むだけでなく、その歴史を知ることが大切でしょう。その歴史を知ったら、躊躇する人も多くなるのではないでしょうか。
 奴隷の歴史とキリスト教の歴史は不可分でしょう。キリスト教徒にあらずんば人にあらずとの、傲慢な教えでどれだけの人が人身売買や殺されてきたでありましょうか。チャペルで挙式するということは、その仲間入りを意味します。それで、はたしていいのでしょうか。善良な人が、オウムに仲間入りしたり援助するようなものなのに、……
 自分以外のカミを認めず、他のカミやその信徒の抹殺を肯定するような一つカミの教えに基づく挙式は、キリスト教信者ならいざ知らず、もう少し慎重であって欲しいと思います。
 イラク戦争が悲惨なのは、その根底に一神教の教えがあることも、一つの大きな要因であります。
 人生の新たなる出発に際し、異国の激しき厳しきカミに誓うより、神国の民としてふさわしい道を歩んで欲しいものであります。
 心美しい日本人が、これ以上あまりふさわしくない方式の結婚式を行わないことを念じております。
 今はブームかもわかりませんが、ちょっと立ち止まって考えてみたいものです。

●神前結婚式について一言
やはり、日本人には一番ふさわしいのではないでしょうか。
 カメラマンやビデオの方におたずねすると、神前結婚式の方が、撮る方から見てもいいと言ってましたが。
 目立つことを欲する傾向にある現在、新郎新婦のニーズに合えば、最高でしょう。
今より挙式をオープンにすれば、それもかなえられるのではないでしょうか。
 
お祓いがあり、神様に結婚の祝詞があり、三三九度の杯、指輪、二人の結婚の誓い、神様に玉串を捧げたり、みんなで御神酒も頂く。

何はともあれ、我々の神様は、心が広大です。
 
●教会 結婚式「誓ひの言葉」の内容
結婚式では、だいたい以下のような内容らしい。
「あなたはこの女性(男性)をよきにつけあしきにつけ、病気の時も健康な時も、死が二人を分つまで、聖なる結婚により、妻(夫)としますか。」と。

 井沢元彦氏は『言霊』(祥伝社)の中で、「日本語というのは実にロマンのある言葉で、どんな散文的な問題でもロマンがあるように見えてしまう。」「(日本語は)契約や戦争には向いていない言葉だと言わざるをえない。なぜ、そう言えるか。たとえば私が日本での結婚式に招かれたとして、次のような挨拶をしたらどうなるか。」と述べ、このように記している。

「 本日は本当におめでとうございます。ところで夫婦というものは、ずっと健康で長生きすればいいには決まっていますが、皆さんご承知のように必ずしもそういうわけには参りません。むしろそういうケースのほうが少ない。ですから、まずここでお二人にどちらかが病気になった場合、それがたとえガンであろうと他の不治の病であろうと、必ず相手を捨てたりはしないということを確認しておくことを望みたいと思います。
 また夫婦という者は、ほとんどの場合、どちらか一方が先に死ぬものであります。同時に死ぬケースを考えてみますと、飛行機事故のようなもので二人一緒に死ぬか、あるいは心中するか、強盗にあって二人とも射たれるというような場合しか考えられません。きわめて稀であり、99パーセントまでは夫婦はどちらかに先立たれるのですから、この際、どちらかが先に死んだ場合残されたほうの身の振りかたについて、きっちり決めておくことが必要かとぞんじます」

 そこまで言ったら、おめでたい席で「なんと不吉なことを言うやつだ」と、叩き出されるかもしれない。人によっては「晴れの結婚式に『病気』とか『死』とかいう言葉を使うなんて、なんと縁起の悪い」と非難するかもしれない。
(略)いま述べたことと、誓いの内容は実はまったく同じなのである。「死が二人を分かつまで」とはどういうことか。分かりやすいように書き直せば、「この婚姻(契約)は夫婦どちらか一方の死をもって終了する」ということだ。そして契約が終了するのだから、新しい契約を結んでもかまわない。すなわち自由に再婚していいということである。だからジャクリーン・ケネデイがオナシスと再婚しても、誰も文句は言わない。

「あなたはこの女性を妻とするにあたって、次の条項を守りますか。彼女がよき妻であろうと悪い妻であろうと、妻としつづけなければならない。彼女が健康な時はもちろん、病気の時も見捨てたりしてはいけない。なお、この神聖な結婚契約は、あなたかあなたの妻の死によって終了します」
以上『言霊』より。

教会の結婚式では、不吉なるどちらかの死を 全面に出して、前提として、又、結婚の終焉を予定して、二人が誓い合うのだとは!
 日本人として違和感がないのだろうか。そう感ずるのは編集者だけなのであろうか。 生ある者はいずれ死ぬのだけれども。
 夢と希望の結婚。そのスタートの結婚式が、自分か愛する人の死を前提としてなされるとは。
 我々日本人が想っているほど、教会の結婚式の内実は、ロマンある結婚式とはなっていないようである。