三吉神社
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由緒
 三吉大神を初めてお祀りした神社として、三吉神社総本宮とも言われる。
 県内はもとより東北北海道などに三吉大神は祭られているが、大神が各地で祭られるスタート、ルーツは当社にある。三吉大神と薬師さんと言われし太平山の神とは別神であることは論を待たない。

神社の創祀は、小川伝之助(のちに辰に改姓)翁がご神託を得て、金山滝から山を切り開き、木曽吉山に始めて三吉大神をお祀りした時に始まる。時に、嘉永二年。西洋暦1849年なり。
天保五年 辰(たつ)伝之助翁(当時姓は小川)が父重病にして九死に一生の際 天性の強烈なる孝心全身に発動し産土神(八幡宮)に日夜祈誓 

或る日の丑の刻 翁に三吉大神祭るべしとの産土神の神託あり 

その神示に従い木曽吉山(今の太平山の中岳で市内より眺むれば正面に三峰中一段高く大きく聳える峰 )を開き大神を鎮祭す

 当初山麓の金山瀧の傍らに岩穴を掘り 祓戸大神 火結神 並びに三吉霊神の御尊像を奉安 日夜艱難辛苦神教に従い 木曽石口登山道を切り開きつつ 金山瀧神社 釣志嶽神社 神仙山神社(前岳)を草建 

女人堂に篭りつつ修業怠りなく遂に

 嘉永二年中岳に木曽吉山神社を創建 ここに始めて三吉霊神を奉斎(太平山の神にあらず) 三吉信仰の発祥となる 

同六年八月 神祇官統領白川王殿の勧遷を得て正一位三吉大権現の神璽を賜る 安政三年辰命院ととなえる 旧家には辰命院名の掛軸など現存せり 

文久三年右手に稲梵天左手に盃のお姿が現れそれが三吉梵天の始まりとなる(その時に歌われたのが正調三吉節である)

 慶應四年 御開山翁辰 伝之助(木曽吉道分之命と称う)霊夢に感じ山麓の清らかな当地に社殿を創建 ここに大神を遷座奉斎す 

以来大神に縁深き辰 伝之助翁の末裔が三吉大神祀る本宮の宮司として累代奉仕し今日に至る   

昭和四十八年 神宮の御遷宮奉祝記念事業として太平八田(神社の3キロ手前)に大鳥居を建立 昭和五十八年秋田県神社庁より一級社に認定される
太平山の前岳(神仙山)中岳(木曽吉山)を切り開き、木曽吉山に初めて三吉大神をお祀りするに至った記録なり。
大正四年發行の公刊であり、秋田縣内の神社や教會を調べる上で、眼を通しておきたい一册である。當神社に關る部分も當然記載されてゐるが、これをどう讀むかが、眼力の問はれる所以である。

葦津珍彦先生曰く、「一枚の端書きが一册の著書より重い證據になるものがあり、千頁の大著が、眞意を語らぬ場合がある」(『一神道人の生涯』36頁)。
參照にしたい、名言である。

まづ、神社名が異つてゐる。それに、主祭神たる三吉の神が記載されてゐない。即ち、抹消されてゐるのである。通常、そのやうな事はあり得ないのに、そのやうになつてゐる。單なる脱漏ではなく、故意にそのやうにされてゐるのである。そこに、昔も今も變らぬ人間の醜さがうかがはれる。
この一書のこの部分を見るだけでも、日本の神社十萬社と言はれる中でも、神社存立の根本であるご祭神が、公の文書上で改竄されるといふ神社史を有するのは珍しい。當神社が歩んできた苦難の歴史が理解出來る。

人を欺く事はできても、眞實は曲げる事は出來ない。人はだませても、神樣はだませない、との信のもと、當社は歴史を刻んで來てゐる。