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かみ れい ひと 霊の存在を信ずる信仰者のページ


●神社の祭とみたまのふゆ    
●家 の 祭 ー神祭と先祖祭ー
●プラス作用 マイナス作用

●顕(見える世界)と幽(みえない世界)

●たましひ 一
●信仰の対象
●相について 
●小野祖教博士の夢
●吉田松陰先生親の夢枕に立つ


 
●神社の祭とみたまのふゆ    
 

 神社の祭には恒に行う恒例祭と臨時祭とがあります。
神社の祭は、神社が神社として行わなければならない公祭と、氏子崇敬者の依頼による初宮、七五三、家内安全、合格祈願、交通安全、商売繁盛等の私祭とに大きく分けられます。

 神社の祭は大祭、中祭、小祭とに分類され、神社が神社として行わなければならない公祭の最たるものが、大祭であります。又、祓えに重きをおいた大祓式も神社で行う重要な神事であります。

 通常大祭は、年に三回、大祓式は六月と十二月の二回というのが一般的であります。大祭の呼び方は神社によって多少異なったりしますが、通常、春祭り(祈年祭)、秋祭り(新嘗祭)と例祭とに分類されます。当神社の場合は、梵天奉納祭(旧正月十七日)、例祭(六月十七日)、秋祭り(十一月十七日)が、三大祭であります。大祓式は、六月三十日、十二月三十一日に取り行われます。

神社が神社として行わなければならない大祭や大祓式が、しっかりと厳粛に執行されるかいなかが、御神徳の発揚に大きく影響しますし、それは取りもなおさず氏子崇敬者の運勢にも大きく影響することになります。
神社の祭が厳粛に盛大に執行される。神様が喜ばれる。喜ばれると御神徳の発揚も盛んになる。氏子崇敬者も御利益(みたまのふゆという)を授かる。とりわけ、神様に真心を捧げた人は著しいと言うことが出来ます。
 逆に祭が厳粛に盛大に執行されませんと、氏子崇敬者への御利益(みたまのふゆ)も乏しいものとなりますし、世も不安定となります。

ちはやふる 神のまもりによりてこそ わが葦原のくにはやすけれ
 
 と明治天皇がお詠み下されておりますように、神々の御守護を戴かなければ、國も家庭も社会も不安定となってしまいます。

 現在はとりわけ、人心も荒廃(罪穢れも多い)傾向にあるのみならず、正しい信仰心の無知と欠如が甚だしく、よからぬことを好む悪神や邪神が跋扈して、荒れた心の隙に乗じてその人の人生を誤らせる傾向が強くなってきておりますので、気をつけなければなりません。【「まがをなす」ものに「まじこられないように」、御守護下さるようにとの祝詞が古き時代から伝えられてきております。その祈願の前には、罪穢れの祓いが肝要であります。】

 神社の祭に当たりましては、祭が盛大に行われますように、神々に報恩感謝の真心を捧げられ、家庭にありましては、神棚をしっかりとお祀り申し上げ、日々の神拝、家の祈祷、神社参拝、罪穢れを祓う大祓式等を行うように努めましょう。かく務められますと、みたまのふゆも増し、知らず知らずに開運の道を歩むことになります。            
 
●家 の 祭 
   
家の祭をしっかりやらないと永続的な繁栄には繋がりません。

然し、家の祭だけをやっていてもこれ又永続的な繁栄には繋がりません。
 家を越えた存在の祭(国や地区地域【神社】の祭)がしっかりなされませんと、不充分であります。

 家の祭には、神祭と先祖祭があります。神祭と先祖祭は丁度車の両輪の如き存在であります。どちらか一方を欠いても片手落ちでありますので、どうか子孫繁栄・家庭平穏の為にも、心を込めてどちらも大事に拝礼なさいますことをお勧めいたします。

家の祭は、各家庭や親族のものであり、他家に大きく作用することはほとんどありません。けれども、家庭の栄枯盛衰には最も強く関わっております。

 敗戦後この方、GHQの影響や社会環境の急激な変化等により、敬神の念も希薄化し、神々やご先祖様にも手を合わせない人が増えております。それが今日の嘆かわしい事件などに端的に現れております。

 聖なる存在との断絶で、本来具有している人間性を喪失しているのであります。
そのような忌まわしい事が子供や孫の代に起こらない為にも、災禍に遭遇しない為にも、神々や祖霊に謙虚に手を合わす生活が大事なのであります。

 現在、先祖祭は多くの家庭で、インド生まれの仏式で行われておりますが、その精神は、日本人が行ってきた先祖を崇める日本的な精神に依拠しております。
 この世とあの世の観念など、異国の宗教である仏教と我々日本人とではかなりのひだたりがありますが、この世とあの世は、打てば響く関係にあると考えて間違いありません。仏教では、人が亡くなれば十万億土に行くというような事を言ったりしますが、そんなに遠い距離でないことは、日々の拝礼の実践等でおわかり頂けると思います。ともあれ、先祖に手を合わすことが大事であります。

この世の子孫の喜びは、あの世の先祖の喜びであり、この世の子孫の悲しみは先祖の悲しみであります。同じく、あの世の先祖の苦しみは、子孫に助けてくれとのシグナルを送り、この世の子孫に影を落として参ります。簡単に言えば、子孫の生活に悪影響が及ぶということになります。これを祖孫一体の幽理と申します。

 家庭の祭が積み重ねられますならば、苦しむ祖霊が居られたとしても、その悪影響は最小限にとどまるのみならず、祖霊の安定と霊位向上で、子孫の方が多大の恩恵を受けることになります。しかし、今日のような目に見えざるものに謙虚に手を合わす人が少なくなれば、そのシグナルに答えることができないのみならず、そのシグナルを感受できず、又幽の存在の否定等で、見向きもしない悪循環となったりしますので、伝えるべきは伝えて家門の永続の道を歩んでほしいものであります。
 
●プラス作用 マイナス作用
     
近年は犯罪が凶悪化し、多発傾向にあることなど、まことに憂慮すべき事態が続いております。犯罪者も、国内在住者だけでなく、違法入国者などによっても起こされ、残忍な事件も頻発しております。又、犯罪者の若年齢化も大きな社会問題となっております。

いつの時代も事件はあったでしょうが、近年の情況は異常であります。刑務所は受刑者が満杯となり、新たに刑務所の建設が進められたりしております。犯罪者の検挙率は、二〇パーセントを割ったと新聞報道されておりました。警察の検挙率の低下と犯罪の増加、まことに由々しき自体であります。

 原因は色々考えられるでしょう。共同体の崩壊とか、社会や家庭教育の無力化現象、良き伝統や先人からの伝承の喪失、自己中心・欲望肥大の蔓延、見えざるものへの畏れの喪失など、あげればきりが無いでしょうが、以前なら自己抑制の機能が作用して犯罪に走らなかったのに、現在はその判断能力が極度に落ちていることが大きな原因の一つと考えられます。少年犯罪の増加などはその顕著な例でありましょう。この少年犯罪などは、明らかに家庭教育、家庭環境の影響が大きく作用しているといってよいでしょう。外国人による犯罪などは、非合法で易々と日本に入国出来ることも大きな要因でしょう。非合法入国の場合、当然しっかりした仕事に就けないので、生きるために犯罪を犯すということになってしまいます。

 国家国民のことを考える政治家や治安維持の役目を担う警察等にも問題がありましょうが、国民の近所付き合いが少なくなっていることも大きな要因と思います。近所からの情報が得られず、犯罪者を容易に見つけること出来ない、即ち検挙できないと言うことだと思います。

以前に比して、事件や事故に巻き込まれる危険性が増しておりますが、事件事故に遭遇する人とそうでない人がおります。車の御祓いをしてもしなくても一緒だと考える人もおれば、御祓いすれば、何かが違うと考える人もおられるでしょう。

 御祓いや祈祷も、万能ではありませんが、それを行う場合としない場合では雲泥の差があります。車の事故を例に考えて見ますと、自損事故もあれば、車がぶつかってきて事故となったなどという場合もあります。後者の場合、明らかに自分以外の作用によって起こされた事故と考えられます。そういうことがないように、祈祷やお祓いをするのであります。

 神社参りや神棚参りを実践しておりますと、大難が中難、中難が小難、小難が無難という具合に変化してきます。
同じようにご祈祷しても、結果が異なる
のは、因果応報の理も考慮に入れて考えなければいけません。具体的に言えば、祖(おや)のこの世での歩みが、現在生きている我々に影響している、影響してくると言うことであります。

  善行を積んだ人と、恨まれる人では、あの世での霊生活に格段の差が生じますので、子孫に対する影響も、プラス作用、マイナス作用という具合に異なります。その結果を子孫は否応なしに受けることになりますので、プラス作用となることが重要となります。
マイナス作用を解消し、プラス作用となるには、神を敬い徳を積む敬神生活が不可欠
であり、最も早く実現する最良の道であります。
 
●顕(見える世界)と幽(みえない世界) 
     
 信仰の対象は、ほとんどの場合、目に見えない幽の存在であります。
幽の存在として、神や仏や祖霊などが一般的でありましょう。

 目に見えないから、そのような存在を信じないと言う人がおります。一見合理的に見えますが、浅薄な思考のように想います。
 自分自身を見ても、目に見えない処(心)と目に見える処(身体)で、自分自身が形成されていることに気づいていないのでしょう。体があって、その中に心があり、その心は誰も見ることも出来ず、又見たこともない幽の存在であります。心が見えないから、その存在証明が出来ないからと言って、心の存在を否定する人に、我々は違和感を抱くのではないでしょうか。

 現今は、神を信ぜず、何をしてもわからなければいいというような風潮が強くなってきておりますが、神様からは全てお見通しだと言われます。(注)それは何故かと申しますと、高い次元からは低い次元がよくわかり、幽世(かくりよ あの世の世界 神々や霊の世界 見えない世界)と現世(うつしよ 我々の生活している世界 顕世とも書く)が異なるからであります。

我々の住んでいる世界は、三次元の世界であります。三次元は、二次元の面の世界に高さが加わった世界、空間、立体の世界であります。
 一例を申しますと、我々三次元の人間は、家という立体からの出入りは、玄関や戸や窓などを通してしかできませんが、あの世の世界【三次元を越えた四次元五次元六次元という世界】の神や幽霊などは、壁や天井等からでも自由自在に出入りが可能です。
 幽霊が、壁からスーと出てきたなどと言う現象を一度くらいは聞いたことがおありかと想います。戦時中などは、戦地に行った兵隊さんが、亡くなった時刻と同じ頃に姿を見せたなどと言うことがよくありました。肉体から霊が離れて四次元の世界に行くと、距離を超越するので、そういう現象が起こりえるのであります。

 要するに、四次元では、肉体を持って生活している三次元世界の制約を受けないのみならず、三次元世界に隣接しつつも時間空間を超越しているので、移動が自由自在なので、三次元のことを容易に理解することが可能だということであります。
ただし、高級霊でないと一時期を除き自由自在には動き得ない神律があるようです。
 明るいところから暗いところは見えませんが、その逆に暗い所からは明るい所はよく見えます。それと同じ理で、幽の世界からは、この現世がよく見えるのであります。
 悪いことをして、誰も見ていないからといって他の人に嘘を言って騙せても、自分の良心を欺く事が出来ません。幽の良心が全てを知っているからであります。この良心とたましひは密接な関係を有し、この良心を中心とした生活をすることが、たましひを清め高めることに通じ、やすらぎの生活の基となります。

 自分を高め、神々や祖霊と共にある生活を心懸けている人は、眼には定かには見えませんが、神々や安鎮高位の祖霊からのご守護も強くなっていきます。
注、顕幽分治の神定めで、神罰の多くは幽世の大神の神裁によって死後なされる。
 
●たましひ 一 
      
霊魂 肉体の中に宿りて一身を主宰しているもの
 それ故 霊魂は 身と密接な関係を有している
〔虫の知らせなどと言われるのは、この霊魂の感応を言う〕

天神の大神霊の一微分子を賦与されているのが我々の霊魂である
  (我々の大元である神様を拝さぬ家庭の未来は危ういと言われる所以なり)


タマシヒのタマは 霊のこと
シヒのシは 風のこと ( 風の神をしなつひこ しなつひめと稱す)
シヒのヒは 霊即ち火のこと シヒは即ち風火のこと
タマシヒは霊 風 火と解すべきものと言われている
(厳夫大人)



風と火と金と土と水の五元が交りあって成っている
肉体の生きている間 暖かなのは、霊魂の火の温もり
肉体の生きている間は呼吸している 呼吸即ち風なり
  肉体の死して霊魂の去りたる屍は やがて水と土に帰る
 死すれば、霊魂を霊璽(位牌)や墓地等でお祀りする(先祖祭り)のが日本人の道である

神祭り先祖祭が軽視されれば家や世が乱れる

肉体は土と水の二種でできており、霊魂は火と風との二種より成り立っている               【風と火の二種は無形なり】
  人間が生きている間は、土と水との肉体の中へ 火と風との霊魂が  宿っている。霊魂には意識が具わり、その意識で物事を識りわけ、五  元の金にあたる骨で締め固めて活動している。

睡眠をするのは霊魂を補う
飲食をするのは肉体を補う
(五穀草木漁貝など食べ物は水土より生ずる。その食べ物を火にて煮るとか焼くとかして食するのは肉体の火を補い、その火は風によりて燃えるので、その食べ物には自然に風も籠もっており、肉体の風を補う。煮炊きように用いる釜鍋は多く金物で金気を含んでおり、肉体の金を補う。)
病気などの場合は火を使った食事の方が、肉体の火と風を補うので、より望ましいと言える。病気に祓いや祈祷が効験あったりするのは、肉体を主宰する霊魂が、いい影響を受けるからである。
人間 風火の靈魂と水土の肉體とを金氣にて絞め固めて生きてゐる

本居翁 平田翁 水位師仙 厳夫大人 諸先人の著作物参照
 
●信仰の対象          
謙虚に手を合わす人であっても、拝む対象が間違ってしまうと、オウム信者などのように人生を間違い、ひいては死後のあの世の霊生活でも悪影響を受けますので、充分な注意が必要であります。

 困ったときや助かりたいときに、神社に祭られている高貴な神々ではなく、すぐ結果を求めて、悪影響を及ぼしかねないカミ・霊・ホトケとも知らずに、あやしい霊能者や拝み屋さんなどで熱心に拝んだりして悪しき縁を結んだ結果、死後そこの霊界で、苦しみの霊生活を余儀なくされている場合があります。

 生前、神々の導きで悪しき縁が解けた人はいいのですが、そうでない人は神定めを知らないこととは申せ、気の毒であります。
 この世の人生は、長生きする人で120才ぐらいまでですが、あの世の霊生活は比較にならぬ程長いと言われます。(時間の長さが、この世とあの世では異なります)
 その長い霊生活は、本人のこの世での歩み方(世のため人のため、神々のために尽くせば〈敬神生活〉尽くすほど霊位は向上する《特別の人は神社の神と祀られる》霊位が向上すれば子孫を守護する力を有する 然し霊位の向上の前には霊の安定が不可欠である 通常子孫が神と祖を拝む日々の実践により安定に繋がっていく)と、子孫の行い等によって左右されます【祖孫一体の幽理】。
 この世もあの世(幽界)でも、神々の導きを戴いて心安らぐのであればいいのですが、穢れが多かったり拝む対象が間違ったために、安鎮ができないようでは困りますので、日本人の信仰対象の要点を記させていただきます。

一、古事記日本書紀など神典記載の神々
一、天照大御神 神宮(伊勢の神宮のこと)に祀られる
通常年末に、神社の社頭や地域の氏神様で頒布の、伊勢に坐す大御神の神宮大麻(じんぐうたいま)をお受けしお祭り頂ければ結構です。
一、大国主大神        ( 共に三吉さんの相殿に祀られています) 出雲に坐す大神で、幽冥をしろしめす大神です   顕幽共に大事な神々です
一、産土大神(氏神) 地区地域の守護神です
一、祖神 祖霊のことです
当神社から出向して行う各家庭での祈祷では、神典記載の神として火の神や水の神などをはじめゆかりの神をお祀り申し上げております 
 
●相について 
 
 印相(いんかん)−−一事のことに関わる

 手相 −−一人の人生が関わる (手相骨相人相とも) 姓名判断
 骨相(こっかく)
 人相 化粧や心の持ち方などで変化の度が強い

 家相 −−一家庭に関わる   地相を含む家そのものの相

 墓相 −−子々孫々に関わる  墓を観れば子孫の状況がわかるとも      言われる それだけ墓と子孫は密接なり

相は統計的な積み重ねから出てくる(無視もダメだが神経質も困りもの)

家相  家 建築上の考慮すべき点

    100点満点の家は無いということを頭に入れておく
       100%満足させたら家は立てられない

利便性快適性外観などに力点を置いて、永年の家相を無視して設計する場合がありますので、よく図面を見てから工事に取りかかるように致しましょう。

 家相をカバ−するもの
   神 棚 と 祖霊舎(仏壇)の有る無しが大きく作用します
 しっかり祀られている家庭は、少し位のことでは家相などの影響はあまり受けません

・同じ場所に家を建てる場合は、家壊し前の祭を大事にしましょう
・新たなる所に家を建てる場合には、家の周りの環境と、かつて不浄の土地や墓地などで なかったかなど、災害の起きやすい地区でないかなど、土地や家購入前には充分調査しましょう(地相と環境に注意)
             
   ●建築前の地鎮祭は地相にもいい影響を与えます
          地相が悪ければ家相良くても悪影響を受けます。
 
・増改築により家相も変化します(プラスになる面とマイナスになる面あり)
・鬼門線上に 不浄物を置かない(いつもきれいに清掃しておく)
  鬼門−やらはれたる邪鬼どもの悪き気吹のさしくる故(古伝)
・家相が良くても不浄や乱雑であれば、吉も凶になります
 
●小野祖教博士の夢 
「松永(材)先生の横顔」
                小野祖教

追憶の会が済んでまもなくであった。私は夢を見た。先生が生きてゐて、元気な姿をしてゐた。私は喜んだ。追憶の会なんて滑稽な事をしたもんだ。さう思った。何か話をした。内容は、全然記憶してゐない。たゞ、妙な事に、私は、先生にさはった。やせたあの身体に弾力を感じたのは不思議である。
こわい先生だったが、夢の中では、やさしい、親しみの深い顔をしてゐた。この間の写真とちがって、、五十代の顔だった。

『 雑誌 新勢力 特集 松永材先生追慕号』(昭和44年10月号)

神道学者、小野祖教博士の夢を見た記事である。夢や霊について、一笑に付する人は、この記事をどう考えるのであろうか。夢の中で先生にさわり、弾力を感じたという。
顕幽一如の道を歩むものから見れば、このようなことはごく自然に理解できるのだが。

 小野祖教博士について、葦津珍彦先生は、神社新報紙上でこのように述べられておられる。「すべての神道人に望みたい。日本の神道が、その悠久の歴史において、かつて前例のない外圧の危機に臨んだ時に、神道の防衛者として力戦し苦闘した学者として、小野祖教博士のそのまごころ(まことの心)を永く銘記していただきたい。」と。(平成2年7月2日)
はたして今の情況はどうなのであろうか。
 
●吉田松陰先生親の夢枕に立つ 
たましひの体験
宗教を成立せしめる根拠としての「霊界の感応」
       戸田 義雄

(仮題)吉田松陰 両親の夢枕に立つ

(吉田)松陰は、安政六年十月二十七日に「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」と歌ひ、刑場の露と消えたことは周知のことである。刑死を知らせる江戸からの便りが二十日後に萩の両親のもとに届いた。ところが指折り数へてみると、松陰の永訣の時と、日も時刻もぴったりと重なるその時に、両親の夢枕に松陰が立つてゐたのである。
松陰の妹の千代刀自が五十年前の昔を思ひ返して右のことを語つてくれたのである。

神社新報(昭和61年8月11日)に掲載された中の一節である。幕末に多大な功績を残された吉田松陰先生は、萩や東京などで、神社のご祭神として祀られてゐる。
戦争中にも、このやうな現象は多かつたと聴く。一見不可解なことを認めるところから、信仰の道は始る。
このやうなことを否定する人は未だ多いが、素直に認める人とさうでない人の分岐点は、その人間性によるのであらう。
霊現象を認める人がここで注意すべきは、妄想や魑魅魍魎の類と混同しない事であり、さうしたものと縁を結ばないやうにすることである。